ノウリョクとヤマイ

「私には思考力があるだろうか?」

他人の自分への理性的な指摘に対してその人の感情的な部分を探って邪推しつらくなるみたいなのは洞察力であろうか?能力には弊害があるのか?無能は善か?学歴のある人間には感情がないのか?

定義を考えた。二項対立で、ノウリョクとヤマイについて。

(無意識とかではなく)自らの意思によってその行動をとるかとらないかが決定できるものはノウリョクであり、意思に関係なくその行動をとってしまうことはヤマイである。

思いついた当初は、ヤマイは病気とよんでいたが文字にするにあたりそのままでは「生活に支障が出るような」のニュアンスが入って干渉してしまいそうなのでカタカナという珍しい語用をすることにした。ノウリョクも一般的な語と異なるのでカタカナに合わせた。

ノウリョクとヤマイの弁別はまずどのようなことがらを分けるか具体例を考える。

「英語が読める」は一般的に能力とみなされる。しかしノウリョクとヤマイはこれを細かく分別する。「読むことも読まないこともできる」のか「読んでしまう」のかである。たとえば、英語を少し学習した日本人が英語のネット掲示板を流し読みしているとき、自分の大好きなアニメをボロカスに言う書き込みが流れていったとき、それを少し読んで不快になる前に止めることはできるだろう。少なくとも、英語母語話者がパッとみてすべて読んでしまってから不快になるのを止めるよりは簡単であろう。つまりここでは、英語を少し学習した日本人は英語が読めるノウリョクをもち、英語母語話者は英語が読めるヤマイをもつということである。

「空気が読める」では、「空気を読んで周りに合わせられる」がノウリョクで「空気に流されてしまう」がヤマイである。

「ピアノが弾ける」では「ピアノを弾くことも弾かないこともできる」がノウリョクで「ピアノを弾いてしまう」がヤマイである。そんな人いるか?子供とかかな?

「合理的に考える」のヤマイは数年前の自分を悩ませていたように思う。とても合理的でない判断をする人々に囲まれ、説得に応じてもらえず、感情優位で進むことが理解できなかった。結果として、周りの人間を愚かだととらえることにならざるを得なかった。「合理的に考えない」がちょっぴりできるようになって、今まで執着していた合理性を打ち破り、新たな視点を獲得した。彼らの感情を重んじる考えの根拠の一つは「人間関係が続いていく」というところにあり、連帯感などが社会において強力であることの理解だったと考えられた。これも合理的結論だが、以前の合理性に執着したのでは出ない考えになった。

ヤマイは条件反射のようなもので、状況によっては自分を苦しめる罠として作用することがあるが一方で瞬発力や継続力があるという点でノウリョクに優越することがある。なので人間の行動はすべてノウリョクで賄えるということにはならなそうだ。

しかしもし、ヤマイに悩まされるのであれば、悩まされる原因がヤマイだと気付ければ、それはノウリョクへと変化させることで解決できるかもしれない。その変化をいかに引き起こすかの方法はわからないが、休んだり、力を抜くような系統のことがカギになるだろう。

次に、責任について考える。責任は、何か失態などを起こして他者に不利益を与えたときに咎められる理屈のようなものである。しかし、状況として仕方のない、すなわち意思が介在できないかそれに近い場合は責任はないものとみなされて失態の咎を受けないと考えられる。正当防衛は傷害の責任を免除されるなど、意思の有無というのが責任の有無そのものにつながるようだ。

しかしどうだろう。寝坊したくて寝坊する人はそういない。しかし寝坊して遅刻すると怒られる。遅刻の責はその人にあるだろうか?自然災害のようなものだと思って過ごせばいいのになぜそうしない?異常者だからか?いや、怒る側からしてみれば、もっと早く寝るとかアラーム掛けて起きるとかできただろ、となるから寝坊した人の判断の間違い、すなわち意思があってよくない判断を行ったから責任があり咎め得るという形になるのだ。

もし、自分が理不尽に責められているように思ったら、自分のヤマイによる行動がノウリョクによる意思の介在した判断だととらえられたからという風に考えてみるのがよいのではないだろうか。それによって自分のヤマイを診断し、ノウリョクに変化させていくことで、より主体的に人生を選択していけるようになるのではないだろうか。

最後に、感覚について。傷つくような言葉をかけられたとき、人をビンタするのは許されることか?考え方によっては仕方ないとなるだろうが、暴力は暴言よりも重くみられることのほうが多いように思える。暴力をスルーすれば身体に痛みを伴いひどければ死ぬが、暴言はスルーすればそれで済むのだから。ほんまか?まあでも現実的なところでも暴言はスルー出来たほうが生活が楽だというのは間違いない。スルースキルは、言い換えれば暴言を聞くノウリョクである。暴言を聞くヤマイからの変化である。もともとこのノウリョクを持つ人がいたら、暴言を聞いて不快な気分になる人はなぜわざわざ自分から暴言を真に受けて不快になりに行くのか?なんて思われるだろう。ヤマイだからだ。このヤマイをノウリョクに変えることによって、またその方法論の確立によって、真に「暴力より暴言のほうがずっとマシ」の思想は社会に受け入れられるだろう。そして、物事に対し不快に感じる責任を自らがとることができるようになるのもこれによる。

とっ散らかったが書きたいことがおおむね書けたのでよし。