無玉の交換という考え方

あるツイートを見た。

ここに登場するエーレンフェストの壺という状況を見て、カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』を思い出した。

時間は存在しない | カルロ・ロヴェッリ, 冨永 星 |本 | 通販 | Amazon

この本にあったようなことを一部思い出すと、確かこうである。

「時間の向きはエントロピーの増大則によって与えられるが、エントロピーの増大則は人間の解像度が低いからそういう風に見えるだけ」

あと、例えとして、

「トランプ52枚を、上半分は赤のスート、下半分は黒のスートとなるように積んで、シャッフルしていくとどんどん混ざっていく。元の状態になることは確率的にほとんどない。このような状況がエントロピーの不可逆な増大の様子として挙げられるが、スートと数字ですべてのカードを区別すれば、すべての状態が全く異なる。最初の赤黒の状態が綺麗な並びで、シャッフル後の並びが乱雑であるというのは恣意的な見方である。全部同じような並びだ。」

みたいなことを言っていた気がする。正しくないかもしれないが、大体そんな感じだったはずだ。この論法をエーレンフェストの壺について適用しようとすると、難しい。ここからは自力で考えた。

二つの壺の中の玉を、左側の壺にまず全部入れる。玉に番号を振る。ルーレットで番号を出し、対応する玉をもう一方の壺に移動することとすると、どんどん壺の中の玉の数は半分づつに近づく。元の状態に近づくことは確率的にほとんどない。

ここまではいい。だが、最初の状態が恣意的で、半分づつ状態と同じだというのは何か変だ。赤のスートと黒のスートで言えば、黒のスートのカードが全部無くなったような状況である。

なので黒のスートのカードがあるものと考える。すなわち、最初に右の壺に同じ数の透明な玉が入っていて、玉の移動はその透明な玉との交換である、とするのである。すると両壺の中の玉の個数は移動によらずずっと一定である。

 

なんかおかしい気がする。なんだよ透明な玉って。無玉と呼ぶことにするけど。それにしたって、本当の玉と無玉を両方数えることの正当性ないだろ。

本に書いてあったことから頑張って解釈すると、我々は物理的な制約のせいでトランプの赤と黒というおおざっぱな区別をしてしまうように、我々は物理的な制約のせいで玉と無玉の区別をしてしまう。みたいな感じだ。我々が無玉でキャッチボールできないせいで時間が存在してしまう!

 

いややっぱおかしいよ。

赤と黒の区別は、それぞれのカードの完全な区別より確かにおおざっぱだが、別に解像度(たしか本にあった)が上がったわけではなくないか?

つまり、それぞれのカードを完全に区別できるときに、カードを赤と黒に区別して見ることができるなら解像度はカードを赤と黒に区別できるときよりカードを完全に区別できるほうが上、と言えるが、トランプの例では全部の状態を同じように扱わねばならない。すなわち、カードを完全に区別した上で、赤と黒という見方を捨てなければならない。これでは解像度が上がっているとはいえない。本の主張とは反対になるが、むしろ解像度が下がっていると言ったほうがいい。すべての状態を同じようなものとして扱うのであるから。

さらに言えば、エーレンフェストの壺においては玉と無玉の区別も捨てることになる。あーあ、おれが無理に論法をゴリ押ししたせいで有と無の区別がつかなくなってしまいました。

この論法をそのまま拡張すれば、0と1の区別もつきません。おまえとおれの区別もつきません。オーマイブッダ

存在の記述方式の提案 - とふろんが何度も同じことを考えないで済むためのブログ

この考え方で有と無が区別できないことを考えれば、なんにもなくてもなんでもできるし、何が起こってもおかしくないという感じになる。自然の斉一性もぶっ壊れる。まあ時間概念を破壊しようとしたらこれぐらいぶっ壊れるのもしょうがないね。