新年早々逆張りをします

ゆで卵を気室から剥くな!

(この記事は脳の積極的な活動を停止し、トレンドマイクロに妨害されながら書いています。)

こんにちは。皆さん、ゆで卵を作ってますか?

今年でゆで卵をつくる権利と食べる義務が憲法に盛り込まれてちょうど40年になるそうです。

日本がゆで卵界との臨界融合を果たして以来、ゆで卵は日本の国民食となりました。祈りはゆで卵の形で顕現し、ありとあらゆる宗教活動とゆで卵が切っても切れない関係となり日本の政体は大きな変革を迫られました。

そんなことはいいとして、朝の祈りで手に入った熱々のゆで卵の殻を皆さんはどう剥いていますか?曲率の小さいほうにひびを入れ、気室という空間に指を差して剥いていく、というのを小学校、中学校、高校、大学、大学院、会社、人によってはゆで卵界から直接、学んできたと思います。

確かに、気室から剥くことで剥きやすくなるのはわかりますが、それは熱湯から茹でたゆで卵の祈りの場合でしょう。異端派として知られる水から茹でるゆで卵の祈りをする我々にとって、この剥き方はもはや確立された手法ではありません。

そもそも、ゆで卵境界(「教会」の字は2023年5月に改められた)の大聖典の祈りの手法の「熱湯から茹でる」に背境して水から茹でるのか、というと、理由は3つあります。

1.おゆがあつくてこわい

2.こわいから、ぽちゃんってやってわれる

3.小聖典12章4節「自戒せよ、自戒せよ、自ずから卵黄を見せぬために」の解釈

まず、1.おゆがあつくてこわい です。ゆで卵界との臨界融合以前から、人間は熱、火に対し恐怖を抱いてきました。臨界融合後、火、水、卵が一体となったゆで卵に対して率直な畏敬の念を抱くのも、火に対する”おそれ”があったためであり、これは背境にあたらない考えである、と主張します。一方で、

2.こわいから、ぽちゃんってやってわれる に関しては、傍人の謗りを受けても仕方ない一面があります。小聖典5章2節の記述に、「熱湯を畏れよ、されど恐れるな、無勇の責は卵になし」とあるので、熱湯のやけどを怖がらずに卵を入れるべきなのです。しかしビビってしまう。ビビッて落下点が高いと卵が割れ、茹でている間に卵白がめちゃめちゃ漏れ出してきます。結局いつもそうなってしまうのなら、それに対する対策をしないことが背境ではないでしょうか。しかしおたまは使いたくない。お湯なので洗い物にはならないのですが。

3.小聖典12章4節「自戒せよ、自戒せよ、自ずから卵黄を見せぬために」の解釈 これは、「自ら」という意味を「水から」の音あてで解釈したものです。字としては「おのずから」なのであまり気にされてはいませんが、我々はこれを重大な解釈なのではないかと考えています。大聖典は直接ゆで卵界からの茹賜物ですが、小聖典は聖茹師の降筆物であるため、若干、意味や表記のずれが生じている可能性があります。なので、解釈はより自由に行われるべきであると考えられます。

 

異常の理由から、私は水から茹でるゆで卵をし、またそれが背境にならないと考えています。

そして水から派のために、ゆで卵の剥き方をお伝えします。祈りののち、冷たい水でゆで卵を冷やし、殻に一周ヒビを入れます。側面の一部を強めに叩き、そこの薄皮をめくることを意識しながら、指に水をつけて指を差していきます。うまくいくと簡単に剥けますよ!ここで、気室から剥かないのは、気室は薄皮が2層になっており、殻側の薄皮を突破しても、卵白側に薄皮がぴったり張り付いているのです。この薄皮ははがれにくいため、ほかの部分から剥くべきなのです。

ちなみに、ゆで卵は味玉にすべく昆布つゆや白だしにつけてあります。

これこそが背境行為なのですがね(笑)

もうすぐ、味の王が来臨し、ゆで卵界は味玉界になります。味の王をあがめよ、あがめよ、あがめよ。味の王こそがまことの王なり。