アタシがあいつに捕まってここにブチ込まれて2日目だ。あのヘンタイ野郎、何考えてやがる。
不機嫌な女はベッドに座ったまま鉄格子の向こうを見る。打ちっぱなしのコンクリート壁、一斗缶がいくつか乱雑に載っている木製の黒い棚。さらに奥の暗闇に、外へつながるであろう扉がある。
コツ、コツ、と地下室だからだろうかやたら響く靴の音が扉の向こうから聞こえる。扉が開き、光に一人の男のシルエットが浮かび上がる。男はそのまま女のいる牢屋に近づき、鉄格子まであと一歩というところで立ち止まった。月明りが男のニヤニヤ顔を映し出す。
「こんばんは。」
「なんだよヘンタイ野郎。ここから出せよ。」
「残念ながらそれはできません。今しばらく、あなたとお話がしたいのです。」
「話すことなんかない。」
「そうでしょうか?私があなたを見つけたとき、あなたは外で、しかも路地裏のゴミ置き場で寝ていらした。よほどのことがないとそんなことにはならないと思いますが。」
「ゴミ袋は柔らけぇから寝るのにちょうどいいんだよ。」
「確かに、そうですね。」
男は静かに笑う。
「馬鹿にしてんのか?」
「いえいえ、とんでもない。ベッドにこだわりがあるなら敷き毛布を変える必要があるかなと。」
「お気遣いどーも。言ったらなんでもくれんのか?」
「快適に過ごしてほしいので、用意できるものなら。ランニングマシンでもゲームでも。」
「じゃあ鍵。」
「それはできません。」
「なんだよ。クソ。てか第一、これ誘拐だろ?」
「そうですね。でも、今のところニュースにもなっていません。」
女は舌打ちをして男に背をむけた。
「アンタの望みは何だ?アタシに何するつもり?」
「なんにもしませんよ。ただそこで過ごしていただきたいのです。」
意味わかんねえし。ニヤニヤ笑いやがって。ここから出たらぶっ殺してやる。女はそう思った。今の距離では手は届かない。
男は女の態度を見て、今日のお話はここまでにしましょうと打ち切って去っていった。
それから何日か。男は毎日三食を用意し、会話を望み、少し話すと喜び、女が自分のことを話すと特に満足そうにしていた。女のほうはというと、身の危険もなく、寝るところもあり、少し退屈だが清潔なこの環境に慣れてきていた。男の語り口調がうまいのか、あるいはもとより誰かに話を聞いてほしかったのか、女は自分のことを話すようになっていった。
「だからニュースにならないというわけですか。」
「そう。アタシなんか誰にも必要とされてないのさ。」
「私はあなたと話せてうれしいですよ。」
「うるせぇ」
女は不良であった。それも並々ならぬ不良であった。学校をサボり、タバコを吸うのはもちろん、気に入らない奴は男子も女子もなく殴った。親も殴った。あまり暴れるので警察の世話になることも少なくなかった。機嫌もめちゃくちゃで、ニコニコしていると思えば近くにいる人を何の前触れもなく引き倒す。当然、取り巻きも舎弟もなかった。ついたあだ名が──
「ふんッ」
女は鼻を鳴らした。ムカつくことを思い出すとよくする癖だ。
「お前も自分の話しろよ。ずりぃぞ。」
「そうですね、何が聞きたいですか?」
「んー、なんでアタシを捕まえたのか、だな。」
ここまで落ち着いて人と会話するのは、きっとこの男が初めてだろう。
「それは、怖かったから、ですね。」
「はぁ?」
「少し昔話をしましょう。まだ私が小学生になるかならないかという頃です。」
男は、父親に動物園に連れていってもらい、初めて熊を見たのだという。
「私が『クマさんかわいいね』と言うと、父は『それは檻の中にいるからだ、本当は怖いんだぞ』と教えてくれました。それで、檻というのは、そうちょうど、『恐ろしいものを可愛くしてしまうもの』なのだと悟ったのです!」
「それでヘンタイがいっちょあがりか。」
「あなたも、今はとてもかわいらしく見えますよ。」
「あ?ぶっ殺すぞ?」
そんな会話をしながら、また月日が経っていく。男と女には奇妙な心的関係ができつつあった。ある日、男の家に警察がやってきた。
男は焦ったが、警察の目的は付近に潜伏している犯罪者を誰かが匿っている可能性があるというのだ。男は安堵した。しかし次の瞬間、男の背後、地下に続く階段の奥から物音がした。警察官は聞き逃さなかった。男は言い訳をする間もなく押しのけられ二人の警察官に地下へ入られてしまう。
地下室の牢屋と女を見た警官は、ただ一言、これは何だ、と発した。
男はこの状況を回避する言葉を見つけられずにいた。だが──
「そういうプレイだけど?なんか文句ある?」
女はそう言った。
警官の一人が、
「警部補、捜索中の犯人は女性ではありません。」
そう言うと、二人の警官はため息をつきながら去っていった。少しして、男は困惑しながら、女に近寄った。
「なんで……ぐっ!」
突如鉄格子の向こうから伸びてきた手に男は不意を突かれた。首を絞められ、体が浮く。
「アタシ言ったよなあ、ぶっ殺してやるって。アタシは"熊"呼ばわりされるのが一番嫌いなんだよ。」
男はもがく。しかし状況は絶望的だ。男の足は鉄格子に阻まれて女には届かない。男の脳裏はすでに走馬灯を映し始めていた。最後に思い出したのは動物園での父の言葉だ。
『知ってるかい。熊はね、決して人に懐かないんだよ。』
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女は久しぶりに外に出た。首を鳴らして、目一杯空気を吸う。春だというのに、女は不機嫌だった。