研究はなぜ社会に必要か?

研究はなぜ必要か?

国家として、社会的利益に直結しない科学研究に国家予算を充てることに一体何の意義があると説明できるのか?より残酷な問い方をすれば、人の命を救うであろう福祉や医療への投資ではなく、純粋数学や絶滅した生物の性質を研究するほうに投資するのか?その必要があるのか?

これは大学院の院生として学んで研究していくうえで答えられなければならない問いであろうと僕は考えた。この問い自体は、学部二年の社会学の講義(学生3人しか選択しなかったので先生の居室で行われた)において先生から僕に向けられたものである。そのときは明快な答えが出せず、必死に繰り出したのは「なんの役に立つかは今の人間にはわからないので、研究は行うしかない。歴史的に見ても、役に立たないはずのものが革命的に役に立つことはあった。」という回答であった。その講義では、「技術革命は、大学や研究施設より民間、町工場から起こっていることが多い」などとも言われ、大学の研究とはなんなのだという気持ちになった。しかし運営資金の多くを学費ではなく運営費交付金とする大学に所属している以上、「研究なんて役に立たないものだ」とニヒルになることは不誠実に思える。ましてや「役に立たないことこそ良い」といった開き直りは一般の人との隔絶や摩擦を生む。つまりこれは問題であり、特に解かなければならない問題である。

最近になってやっと自分の中で哲学的な解答を得ることができ、友人に話したところ「ブログにまとめてくれ」と言われたので書くことにする。

まず、素朴な解答から考える。表題の問いに対して、次のような解答が考えられる。

・人類の知識の総量を増やすために必要だ。

・日本が国際社会に後れをとらないために必要で、さらに、一度研究をやめてしまえば知恵は断絶し、日本の科学力は復活にかなりの時間と金がかかるようになるから研究を支援しつづける必要がある。

・大規模感染症のような不測の事態が起こり、急に専門知が必要となったときに他国に頼らず国民に説明が行えることが大事だから必要だ。

・研究自体もそうであるが、それにつながる高等教育は国民の平均的な科学に対する理解を底上げすることができ、国民はより合理的な判断能力をもつことができるので社会的価値があり必要だ。

これらをまず考えた。場合によってはこれらの解答で説得することができることもあるだろう。しかし純粋数学や絶滅した生物の性質のような研究は、まだこれらの解答だけでは納得させきれないように感じる。

ここで少し、道徳のことを考える。人の命はなぜ大切か?なぜ人を傷つけてはならないのか?と考えて突き詰めてみる。「自分が傷つけられることを考えると、それは嫌だから。」であるとか、「人が死にまくったら社会が存続できない」であるとかが浮かぶだろう。さらに問うて、じゃあそれのなにが悪いの?別に滅んでもいいじゃんって考えてもよくない?と言われると、合理的な解答は得られない。そういうお前は勝手に滅べ。という反応になる。ここで、人間は「人類は存続できたほうがよい」のような考えを何の仮定もなしに正しいと認める、つまり道徳的に正しいとしているのである。数学的に言うと、「公理」の考え方である。ほかの「道徳的に正しい」の例を挙げると、「国民が自由であることは大事だ」のようなものもある。これは人が勝手に「これは正しいものだ」ときめてしまっているのであり、論理的正しさではないため、「国民が自由であることは大事だ」を採用していない人も論理的には存在しうるし、それを合理的に批判するのは難しく、実際、「国民の自由をかなり制限してよい」という形で国家運営を行っている国は少なくなく存在する。つまり、国家ごとに道徳、すなわちとにかく正しいときめてしまう命題がいくつかあって、それをもとに運営を行っているのである。

人間は、知的好奇心をもち、さまざまな試行錯誤のもと新たな知識を手に入れ、知恵を高め、そうして生き延び繁栄してきた生き物である。これを認め、「研究することは大事だ」という命題について、これを人類の営みの延長線上にあり道徳的に正しいと言うことは人を納得させうると僕は考える。

表題の問いに対する解答は得られた。

日本が国家として「研究することは大事だ」という命題を道徳に組み込み、正しいとしつづけているから。

別に人の役に立たない研究なんかいらないという考え方は成り立ちうる。しかし国家日本はそう考えない。

こわいので補足すると、別にこれは「研究は人命に優越する」とかは言っていない。しかし逆も言っていない。あと参考資料とかは無いので文責は全部僕です。