ブログ開設!嘘の読書感想文

後輩の日記みておもしろ!ってなって始めるおじさんになりました。

ここにはTwitterで書かない長文や人を選ぶ文章を書く予定です。

 

 

読書感想文、嫌ですよね~ 

小学一年生か何年生かのころから夏休みのしゅくだいとして課された自由作文と読書感想文の選択課題は文章構成力もモチベもない当時の自分からすればかなりつらくて、何がつらいかって何の創造性もない作業に置き換わってしまうこと、その産物を何度も眺めて自分の無才を確認し続けないといけないという苦行、それを先生という権威に開陳せねばならないという恥さらし。恥汁(はじじる)が出る。(肩のあたりから出る架空の体液)

読書感想文を書かされることの悪口は1200文字書ける自信があるけど自重します。

しかしなんでこんなに読書感想文が嫌なのに、読んだ本の感想を述べたくなったり、共有したくなるのでしょうか?

自分の場合についてよく考えてみると、

(1)本を選ぶ自由度が低い

(2)読みたいと思って読んでない

(3)単純に書く量が多すぎる

これらの理由が「趣味の読書の感想」との違いを生むんじゃないかな~

詳細に述べる。

(1)本を選ぶ自由度が低い

これは自縄自縛なのですが、人に見せると思うとめちゃくちゃ無難な本を選んでしまいます。無駄に格好つけてみたり、サラッと見逃してもらえそうな本を選んでみたりした思い出があります。

(2)読みたいと思って読んでない

これはタイミングの問題でもあり、小中のころは本を読んでも一切感想を抱かない子供でした。単純にインプット量が少なくて、本を評したり率直な感想を言葉にすることができませんでした。なので本を読んだ読後感とか皆無で、本にワクワクもしない。本を読みたくなるタイミングが存在しないんです。現在は図書館でいろんな本を借りては読んでいるし、数学書も読んでるので、まあそういう時期のものだったのかな。

(3)単純に書く量が多すぎる

もうね、4ツイートくらいで収まる。

 

これらの制約を取り払って、自由に読書感想を書ける、話せるというようになったら、昔の自分はもっと生き生きと取り組めたんではないかな、と思います。

 

やっぱ思いません。ぜってーーーー書かねーーーーバーカバーカ。

 

最近は「記憶を持って小学生に戻ったらしたいこと」のひとつとして、嘘の読書感想文を書くことがあります。よし、書いてみよう。ここからほぼ全部嘘です。

 

『最下層の花』山下未深

ディストピア系SFには前々から興味があったので、読んでみた。ちゃんと紙の小説を読むのは何年ぶりだろうか。ディストピアとはいっても、ここで展開される世界観は独特で、上中下層と人々がわかれてはいるものの、人々は多様で、世代を隔てれば身分の流動もある、現代の価値観の極限のような、否定しきるのは難しい社会構造になっている。働きアリの法則が元ネタかな?下層は犯罪者が送られるところではあるけど、下層民のみんながみんな悪人ではなくて、犯罪をしなければ生きていけなかった人々も多く、下層の上層、中層は平和。犯罪をしなければいけないように仕向けて逮捕し、刑罰を口実に労働をさせる、中層で貧困にあえぐ人は下層の上層のほうがすこし劣悪だが不安にさいなまれない暮らしができるからと軽犯罪をしてより弱者的になりたがる。なんだか現代にも似た構図があるように思った。メインストーリーは最下層の福祉のために派遣された庭師と、なぜか生まれながら重犯罪者として最下層で生きる少女の恋愛で、これはちょっと陳腐かな~とは思ったけど恋愛もの全然読まなすぎで耐性なかったので普通に楽しめました。やっぱりSFは通底する世界設定を味わうのがたまらんよ。しかしこのメインストーリーなしでは味わえない世界観の表現は、肉なくして肉のうまみだけを食べても物足りないことに例えられるのではないか?ぜひ読んでみてください。

 

嘘終わり。606文字。原稿用紙1枚半をわずかにはみ出す。やっぱ思った感想をパッと書いても800や1200には到達せんな。(ここで2000文字かけて読書感想文の悪口を言う)

力尽きたのでこの辺にしておきます。明日朝これ見て「うわあ…」って気持ちになったら消すかもしれん。