日本排尿リーダー育成会

とんでもないところに入れられてしまった、と思った。

 

 

「よっ、あのさ、お前おしっこしたことあるよな?」

元同級生の化中(ばけなか)君。先日数年ぶりに連絡が来て、何やら話したいことがあるというので会うことになった。開口一番に言ったこともそうだが、隣にいる男は誰なのだ。もとよりデリカシーもプライバシーもない奴であったので想定内だとしても、もうかなり帰りたくなってきた。

「は……?あるけど、てかその人誰?」

「こいつ?後輩。名前別に知らなくていいよ」

知らなくていいかどうかを判断する権限が自分にあると思ってるの、映画とかに出てくるアメリカの会社の上司だけかと思ってたわ。

化中は後輩のほうを向き、何か命令をしだした。

「じゃあアレ出して、んで、名前がまず……」

俺の名前を伝え始めた。すると今度は俺のほうに、

「お前、まだこの辺住んでるよな、誕生日いつだっけ、あと……」

いろいろ聞いてきた。俺が答えるたびに後輩をチラ見して、後輩はさっき取り出したタブレット端末に何か書いている。

「よし、じゃあ登録完了だから」

「え?何?」

「あー大丈夫大丈夫、別にお金かかんないやつだし」

大丈夫かどうか判断する権限が……どころではない。

「本当になんなのか教えてよ」

「日本排尿リーダー育成会っていう会、っていうかサークルっていうか仲間?」

回答が疑問形で終わるな。なんだよ排尿のリーダーって。しかしイヒ中は俺の疑問に答えないかたちで滔々と語りだす。組織のすばらしさ、友人との出会いに感謝とか、砂糖の入っていないゼリーみたいな空虚な話をたっぷり話し、満足そうにしていた。

「この後暇?てかずっと暇だよね、ちょっと場所変えよか」

 

 

実態は拉致だった。

場所を変える、が拉致の隠語となる世界を今日まで俺は知らなかった。用意された車に乗せられ、近場のカフェとかおすすめの居酒屋とかでもなく、高速道路に。徒歩ではもう帰れない。イヒカスの機嫌ひとつで10時間徒歩で帰宅せねばならなくなる。

そうしてセミナー会場と呼ばれるビルへ着いた。車中でも砂糖抜きゼリーをたっぷりやられ、精神をゼラチンまみれにされて疲弊しきっているのに、セミナーを受けろというのだ。受付では俺の分まで手際よく申請してくれた。このカスはこういうときの手際でうまいこと人生楽しんでるんだろうな、という気持ちしかなかった。

セミナーは、体験型セミナーなるもので、講演を聞くだけではなく、グループワークとかディベート的なもの、みんなの前でチャレンジしてみようなど、およそ俺を苦しめるためのひととおりのものは揃っていた。しかし、講師はわりと気さくな人で、俺のような人間がいることも想定してなのか、寄り添うような発言もしていた。だから多分、悪いセミナーではないのかもしれない。具体的に何をやったかはあまり覚えていないが、また来てもいいかと思った。

化中は車で連行した人をちゃんと送り帰すということができるすばらしい知的人材であった。

「良かったろ?」

「まあね」

こいつはちょっと強引だが、根はいいやつなんだよな、昔からそうだった。セミナー情報はもうメルマガ登録されてるらしいから次のセミナーにも行ける。えーと次が……7日間の合宿型セミナー……?

 

 

天国と違って、耐えがたい地獄を生み出すのに創造主は要らず、邪悪な人間で十分なのだなあ。

山奥の合宿所で、指導者の集団によって排尿トレーニングと称して水をがぶがぶ飲まされ、排尿を監視され、それを指導され、わけのわからないタイミングと聞いていないルールの抵触でブチギレられ、5時間睡眠を強いられたうえで朝の排尿のタイミングを指導者に決められる。おぞましいことに、意思によって排尿は完全にコントロールできるという思想を超えて、排尿を他者に委ねろという思想まで到達しているようだ。意味不明に聞こえるだろうが、実際意味不明だ。彼らは健康効果以上のなにかものすごいものを想像してるに違いないが、まったくわからない。分析は無意味だ。とにかく逃げたい。

「なんとかして、ここから逃げないと……」思わず漏らした。

 

 

 

ごめん違う違うおもらしじゃない。今のは俺が悪かった。言葉をポロっと言っちゃったという意味で受け取ってください。

指導部にバレたら最悪なのだが、そばに聞いていた人から話しかけられた。

「あなたも……ですか」

「いや、今のは」

「いえ、大丈夫です、一緒に逃げましょう」

小麦島(おむぎしま)さんという方だ。サラリーマンをしていて、俺と同じような経緯でここに来たそうだ。彼は俺よりも賢いようで、警察署や交番へ逃げ込めば助かるだろうという考えを教えてくれた。

 

 

小麦島さんは捕まった。人のたくさん通る朝の第一排尿時間の廊下に、椅子に座らされ、指導者の怒声を浴びて尿を漏らしている。「本気でやってる人を馬鹿にしている」「裏切り行為だ」「お前に育成会に入ってくれとは誰も頼んでいない」「やる気もないのになぜ入った」めちゃくちゃデカい怒鳴り声で、周りの人間もちょっと漏らしている。極めつけは「この男を擁護したい者はいるか?いるなら出てこい!」

小麦島さんがこちらを見た気がした。その目は、「逃げろ」なのか「助けて」なのか、わからなかった。

 

 

だが、ふと気が付いた。指導者が集まり、参加者の注目も集まっている今を逃せばもうチャンスはないだろう。警備も監視も強化されるはずだ。第一排尿時間の後には自由時間がある。排尿所のキャパシティの関係から、排尿の順番は早い者と遅い者で分けられる。特に早いタイミングで排尿した者だけは誰からも監視されない空白の時間が発生する。今の俺はそのタイミングをつかんだ。すぐさま行動に移る。まず、排便は監視されない。おしっこできない特殊な便器があるトイレの窓からの脱出だ。そこで育成会のユニフォームから普段着に着替える。そうすれば見つかっても部外者だと思われる確率が高くなる。

 

 

この地獄合宿での知見をふたつ述べる。ひとつは、人間は排尿を支配されるだけであらゆる自由を失うということ。もうひとつは、二階の窓から飛び降りるのはまったく無鉄砲で怪我を伴うということである。足を捻ったか、ひどく痛い。幸い腰を抜かしてはいないので無理をすれば歩けるだろう。ずりずりと身を隠した。逃走がバレるまで時間はない。今のうちにこの痛みが引くように祈りながら、少しずつ山を下りる。道に出れば監視があるかもしれない。道がギリギリ見える程度に木々の間を進む。

「今のうちにもどってこーい!」

拡声器を通した声が聞こえる。

「逃げても排尿からは逃れられないんだぞー!」

まだ遠くに聞こえる。これなら道に出て逃げてもいいかもしれない。そう思ったこれが失策だった。

「あっ、いたぞ!」「いた?」「違くない?」「とりあえず捕まえよう」

焦って外へ出た失敗、普段着作戦失敗、これを取り返すにはもうこの足を捨てねばならない。激痛ダッシュである。走るという行為がアドレナリンを処方してくれたのか、あまり気にならなかった。痛いが、判断できる。

「待てー!」「回り込め!」「逃げ込まれたらまずいぞ!」

逃げ込まれたらまずい……?交番は見えないが、もはやコンビニでもいいのかもしれない。

 

「らしゃーせーい」

枯れ葉まみれで片足を負傷した成人男性、入店。

「警察を……呼んで、ください……」

追手は来ず、俺は警察に保護され、病院に行き、帰宅した。

 

 

その後育成会からも化中からも音沙汰無く、急激にいつもの日常が戻ったことにまだ馴染めていなかった。日本排尿リーダー育成会の解散を知ったのはその二年後、ネットニュースのまとめだった。ここで、やっと俺自身の自由を、排尿の自由を感じた。小便が輝いて見えた。自由だ!自由だ!

俺は街へ繰り出して、自由なる排尿を謳歌した。具体的には、犬の小便を上書きする、道端にはみ出して干してある布団に掛ける、公衆便所の前で仁王立ちして漏らすなどだ。会社でも後輩に説教しながら漏らすのはありえないほど快感だった。指摘したくてもできないあの感じ、そうまさに自由の本質である、他者の干渉不能性である。

そうしていたら逮捕された。わいせつとか器物損壊とか、なにやら罪の種類が多い。裁判官に、

「あなたの意思で排尿はコントロールできたのではありませんか」

と言われたので、

「コントロールしないことを意思によって選び、放尿しました」

と答えると、なんか罪が重くなってしまい、刑務所に入ることになった。

刑務所はひどいところで、漏らすと「いい年して」と怒られる。最悪だ。

とんでもないところに入れられてしまった、と思った。