タイパ概念の良し悪し

この世にあるものに善性や悪性はなく、あなたとの関係性において善悪が生じる。

概念にもそうであり、良いものと悪いものという区別は、あなたが如何にそれと関わるかによって決定される。

 

 

人間の活動について考える。ここでは、活動の種類を2種類想定する。それらは直線的活動と無軌道的活動である。

 

・直線的活動とは、目的をもち、その目的の達成のためにするような活動。

・無軌道的活動とは、目的をもたず、状況や手段を重視して行われる活動。

と考える。活動の大小は問わない。

具体例を挙げる。

昼飯を食うと決め、コンビニへ行き、弁当を買って帰り、食べる。直線的活動である。

昼頃に散歩していると、コンビニがあったので、入ってみたら、弁当がうまそうに見えたので、買って帰り、食べる。無軌道的活動である。

 

無軌道的活動の中にも、小さな直線的活動があるのが見て取れるが、全体としてどこへ向かうのかは考えていないところが違うようである。反対に、直線的活動をより大きな視点から見ると無軌道的活動に見えることもある。昼飯を食った人間は、決してこの昼飯のために生きているわけではないし。

 

直線的活動のよいところは、目的があるため、やるべきことがわかること、および、達成という絶対的な評価基準があるため、その基準においての今の自分を評価できるというところ。

無軌道的活動のよいところは、今その瞬間の自分を重視し、大切にするところ、および、自分をいちいち評価しないので、自分を責めるようなことが起こらないところ。

 

悪いところは、よいところをそれぞれひっくり返して入れ替えたとおりである。

今の自分を大切にしないで、いつ幸せになろうというんだ?そっちこそ、何も成し遂げられないじゃないか。といった感じである。

 

さて、教養人によってさんざんボコられている「ファスト教養」や「タイパ」などという概念を考えて、もう一度軽くボコってから優しくしようと思う。

 

タイムパフォーマンスというのは、時間対効果という意味であるが、効果の量や質を適切に評価できているかどうかはまず怪しいものである。読書をやめて本をまとめたYoutubeの動画を見るのは、たしかに時間を削減しているだろうが、そこに読書体験はない。かみ砕かれた内容の摂取は、自分でかみ砕く力を失わしめるのではないだろうか。前述の内容と絡めていえば、このような取捨選択を行う人はおそらく本の内容を知るという目的の直線的活動を行っている、と考えてよいだろう。その場合、手段はどうでもよいので、時間効率のよいほうをえらぶのは合理的である。

しかし、我々はその本の内容を知るために生きているわけではない。また、時間を節約するために生きているわけでもない。時間を節約することに疑義をもたずにいると、言語化しにくい豊かさが失われてしまう。本の内容を知りたがっているだけのようで、自室に置いて背表紙を毎日見たくて、その本と親しくなりたくて。そういう情緒が育むものはないだろうか。小さな目的に囚われず、もう少し大きな目的を考えてみてはどうか。

 

タイパも悪いことばかりではない。読まないよりは軽く知っているほうがよい。やらない善よりやる偽善のように、「時間がかかってめんどくさいからやらない」という層が、すこしでも活動的になるのであれば、

 

 

書くのだるくなりました。

無軌道的活動もいいよっていいたかったんです。

自分の設定した目的に向かって進むばかりでは、自分の想定内+誤差ぐらいまでしか行かないけど、無軌道に活動しまくれば、想定外のところにたどり着けるし、道のりも楽しいんじゃないかなって。

僕もそういうことしようって思ったんでこうやって書いてるんです。

熱心な論評を期待してた人ごめんね。

あ、あとね、タイパとかって、効果を頭の中で測ってるから、先にタイパとか効率考えようってすると、自然と測定基準が決められちゃうのね、無意識的に。それって自分の大きな目的に適うのかって、たまに考えてみてほしい。じゃあね。